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古代の八女

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 岩戸山歴史資料館にて、八女地域の発掘作業に25年間務めた職員の出張講座があった。 
定年を迎え彼は新しい希望を述べた。日本の古代を調べていくと大陸との関係は深い、そこで最もその影響を受けたと思われる朝鮮半島へ、百済・新羅・高句麗の歴史を調べて、日本との因果関係、特に岩戸山を中心とする八女の古代史を考えるという。
 へりくだるでもなく威張るでもなく、古代遺跡の発掘に生涯をかけた古代史学者の立場で、八女には卑弥呼とつながる遺跡は少ない、邪馬台国は八女では在り得ない。我田引水が大流行の郷土史家を集めて、ここにはその遺跡が見つからないから、という。
 実直な語り口から類推を避けた話となる。当然、遺跡発掘の経過と説明であり、遺跡から見える八女の昔の話である。開発された土地の古代を知るには無理がある、ここは農地と自然林の広がる吉野ケ里ではない、とも。
 時代区分は縄文早期(約7000~6000年前)、中期(約4000~3000年前)、後期(約3000~年前)、弥生前期(約2300~2200年前)、後期(約1900~1800年前)、古墳時代へと進む。八女地方の遺跡発掘は人家や田畑の私有物が多く、部分を点でつなぐ状況にある。 
 :下記は講座に参加した私のメモである。

1・春から秋にかけて、採集生活では星野村など近くの山へ移動する。そこで自生する果実をかじり食べ物を探して生きた。冬は山に食い物がないから平地へ降りて過ごした。7000年ほど前の縄文時代前期の生活である。生活反応としてテント?みたいな軽い遺跡が残る。

2・アモメ遺跡(八女市柳瀬字アモメ)は小さな住い跡が見つかる。矢部川上流の流れの速い土地柄で、魚獲り用網錘があり、また尖った杭(上柳遺跡)を伏せたイノシシ用の落とし穴がいくつも見つかり、押し型文土器(大坪遺跡)が出てくる。

3・八女の平地には米を育てた形跡が希薄だという。小さな遺物は(包丁の発見数が少なく)見つかるが大量の米栽培に結びつく遺跡は出てこない、という。矢部川があり水の問題は傍流からいくつか考えられるから、もっと別の問題だろう。古代の矢部川土手(自然堤防)から大量の生活反応が見つかるという。

4・弥生の時代2000年頃、(立野・大坪遺跡)大きな建物群が発見され、(室岡・山ノ上遺跡)二重環濠と集落が見つかる。西日本新聞10・3朝によると、弥生時代前期(紀元前1世紀頃)の円形の環濠集落があり、二重環濠の内側には米の貯蔵穴が発見、稲作栽培の定着が示された、とある。
しかし、遺跡の実態から大規模水田は考えられない、と話は進む。

5・弥生の後期(約1900年前)、鉄の塊(鉄屑)が多く発見された(西原遺跡)が当時の鉄はすべて輸入品であり、矢部川の氾濫で見つかる。また、(西山ノ上遺跡)鍛冶の道具類が出土、矢部川中流域には鋳型を作る石が見つかっている。この石は上流にはない(ヘバル川にはある)。銅剣・銅鐸を作るのに必要な石、邪馬台国を探すポイントの一つとなる。

6・集落は小さなものでもいくつも集まれば大きな集落となる。発掘状況から室岡、山ノ上地区にはその形跡(遺跡の集中)が見て取れる。建物の柱となるものが発見された(柳、坂田遺跡)8~10M以上の大規模の建物が考えられる。
弥生中期の(北小路遺跡)遺跡出土は少ない。

7・弥生後期の亀甲遺跡(室岡)から鏡や貝の腕輪出土、野田遺跡から鉛で作った鉾(重要文化財)国産の鉛成分、が墓の副葬品として出土、また茶ノ木ノ本遺跡(柳瀬)よりトビ口、鏡、細型銅剣が副葬品として出土、この。副葬品は王に相応しい。甕棺内に副葬する(北部九州)通例からいえば、いずれも甕棺外に副葬してありこの地方の特徴だ。

8・遺跡発掘とは眠れる古墳を暴くことを意味する。遺跡の破壊につながる行為、現在のところ岩戸山古墳の主は不明という。これまでの話から卑弥呼ではありえない。
また、米を生産しない地域にどうして権力が生れたのか? 米生産=富の蓄積=権力という、支配の構図が出来上がるが、その元となる富の源泉は八女地区においては何だろう?という疑問がわく。

9・岩戸山古墳に祀つられた主は誰? 富の裏付けとされるものは何? 権力をもった人物は、どのようにして富を集め戦いに勝ち権力をもち得たのか?
権力とは土地争いであり、その力の及ぶ範囲を守る力業のことである。国として栄えるために、富を得て富の分配を基に主従の契約がなされる。磐井の氾濫が歴史に残る。

10・昔も今も生きるとは富を守ることにある。八女を拠点に磐井一族の王国が地方を支配していた。当時、すでに筑後平野と言わず九州北部一帯が支配の及ぶ領域である。九州から大陸へ、海を越えて交易による活動もあり、磐井の王国は九州から大陸へ支配の夢を育てていたようである。倭国として朝鮮半島に同盟国をもち、共同の利益を守る施策が行われていた。

11・日本は奈良に朝廷をもち、奈良の支配者は磐井の王国へ鎮撫の軍を送る。歴史では磐井の乱である。奈良を大和朝廷と呼ぶのが歴史であるが、卑弥呼までさかのぼる歴史を奈良朝廷は欲しているようである。卑弥呼=邪馬台国近畿説である。磐井の王国が卑弥呼とつながる物証を持たず、卑弥呼と関連する考古遺跡を特定できない、という学者の静かな結論を潔い、と思う。
by yilaidn | 2010-03-01 07:58 | 筑後平野
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たくさんの時間を無作為に集めて収納する箱、過去から未来まで遥か遠くまで、光速で応えるドラえもんのポケットにどこか似ている。

by yilaidn
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